MBAとは何か
求人広告の見慣れない3文字
私が初めてMBAという言葉の存在に気が付いたのは、会社勤めを始めて5年位経ったある日曜日の朝でした・・・。現在のようにインターネットが広く普及する前の時代でしたが、朝日新聞の日曜版には多くの中途採用の求人広告が掲載されていました。何気なしに目をやると、それはとある外資系コンサルティング会社の求人広告でした。応募資格の欄に、「MBA、もしくは国内外大学院修了」とありました。いったいこの見慣れない3文字MBA(えむびーえい)とは何だ?NBAアメリカのプロバスケットボールリーグなら聞いたことがあるが、、。私の頭の中でMBAの3文字がぐるぐる回り始めます。その日から捕りつかれたように本屋に出向いたり、知人に聞いたりして情報を集めます。そして漠然としながらも、欧米の経営学の大学院(ビジネススクール)を修了した人が得る学位で、米国では修了後の初任給や昇進や昇給に大きく影響するものであると理解していきます。
社内MBAホルダーの存在
いろいろ調べていくうちに、自分の会社にも何人かMBAホルダーがいることを聞きつけました。当時私が新卒で勤めはじめた会社は、日本電信電話公社独占であった日本の通信事業が、規制緩和によって誕生した新電電の一社でDDI(第二電電)という会社でした。京セラの稲盛さんが発起となり、民間企業225社(内5社は幹事会社)の純粋民間企業の出資によって生まれたベンチャー企業でした。私は新卒採用2期目の300番目くらいの社員で、新卒若手以外の課長や部長は京セラをはじめ5社の幹事会社からの出向者で成立っていました。その中で日本電信電話公社から移ってこられた、種田さん(仮名)や深元さん(仮名)や三菱商事から出向されていた足代さん(仮名)が企業派遣で米国大学院を修了したMBAホルダーでした。種田さんはその後、DDIの副社長に、足代さんはマッキンゼーに移られます。
海外のMBAへの憧れ
何やら知的でエリートの匂いがするそのMBAとやらを、自分もとってみたいと考えるようになるのに時間はかかりませんでした。社内の転勤や配属換えの環境の変化に翻弄されながらも、先ずはTOEFLのスコアを上げるためにTOEFLの専門学校に通い始めます。1990年代の半ばには日本国内の大学院もMBAの学位取得のコースを始めるところがいくつか現れ始めます。ただ志願書を取り寄せたりしてよく調べてみると、志願書に修士論文の研究計画を書く欄があり、ビジネススクールではなく修士論文作成を修了要件とした大学院で、研究者が学術的な理論を教える研究者養成型ものが殆どでした。そんなこともあり、実践的なMBA理論とスキルを身に着けるには海外しかないと考えていました。
日常という罠
「3日坊主」という言葉があります。私も胸を張れるほどの3日坊主でした。残業、会社の仲間との付き合い、顧客の接待、転勤、はじめたばかりのゴルフ、その他、日常という罠がどっぷりと生活全体を覆います。
一時はMBAを自分もとることを決意したものの、目標にむかってまっしぐらという訳にはいかないのです・・・。続きは次回のコラムにて。To be continued. Stay Tuned…
《連載コラム》部長を辞めて教授になったMBA③:MBAを目指すのは隠れキリシタン?
《連載コラム》部長を辞めて教授になったMBA①:はじめまして
この記事の著者
通信の自由化によって誕生したベンチャー企業のDDI(現在のKDDI)にて、新設事務所開設や国内営業企画等に従事の後、豪州現地法人のシニア・マネージャーを務め、その間、豪BOND大学でMBA、豪シドニー大学でMA in International Studiesを修了。帰国後、米国シリコンバレーIT企業であるサン・マイクロシステムズの競合戦略室(WarRoom)の日本担当責任者としてサーバーの競合戦略、シスコシステムズでIPベースの新規ソリューションの日本市場普及等、世界的IT企業の日本法人での役職を歴任。中京地区の医工連携・産学官連携のコーディネイトに従事の後、2016年より現職。早稲田大学大学院博士後期課程修了(博士(商学)早稲田大学)。
専門は「経営戦略」「経営情報論」「国際経営戦略」「ベンチャービジネス論」等。IT企業のプラットフォーム競争戦略や産学官連携のベンチャー育成に関する講演・論文等多数。著書に「IoT時代のプラットフォーム競争戦略(中央経済社)」 また研究成果の実務分野へのフィードバックとして東海地区の企業に新規事業のビジネスモデル構築や事業化支援を通じ助言をおこなっている。
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