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ハーバードでの感動を学生に伝えたい。– 長沢雄次先生インタビュー(2)

マネジメント研究科教授 長沢雄次 先生


長沢雄次先生は日商岩井にはじまりソフトバンクでは孫正義氏の右腕として活躍されてきました。ベンチャー企業の社長も多数務められるなど豊富な実務経験をお持ちです。先生のご活躍の経歴について話を伺いました。なお、長沢先生の「講義に挑む姿勢」や「担当科目であるストラテジックシンキング」については、「私にとってMBAの教室は劇場です。バッと手が上がった瞬間に風が起こりますよ。編」をご覧ください。

取材:2015年8月
語り手:長沢雄次
取材・構成:名古屋商科大学大学院広報

MBA、ハーバードのきっかけは「ごね得」

長沢先生の経歴について教えてください

長沢先生: 日商岩井(現:双日)に22年間勤めた後、ベンチャーを渡り歩きました。前半が大企業、後半がベンチャーで、6回転職しています。社長や社長格を務めたのが6社、うち起業したのが5社です。最初の日商岩井では情報システム部でプログラマーをしていました。工学部出身なので適材適所だったかもしれませんが、営業がやりたくて入社したので、やりたいことができていませんでした。10年勤めたところでやっぱり辞めようと思い退職を伝えましたが、取締役にダメだと言われてしまいました。私の次の勤め先の社長をよく知っているから、とその場で電話をかけて「ここに長沢がいるが絶対にお前の会社には行かせない」と。辞められなくなってしまいました。取締役はいろいろ考えていてくれて「お前は現場に戻れないからMBAに行け」と。もともとMBAを目指そうという考えは一切なく、会社を辞めようとしたらきっかけが与えられました。いわゆる「ごね得」です(笑)。

資格がもらえてすぐに行けたのでしょうか?

長沢先生: MBAに行ける資格は貰えましたが、当然受験して受からなければ行かせてもらえません。アメリカのトップ10のビジネススクールでなければ給費されないという条件でしたので猛勉強しました。英語も得意ではなかったため、MBAの予備校に半年ほど通いました。どうせ受けるならナンバーワンを目指そうとハーバードを受験しました。予備校の先生には「長沢さんのように点が悪い人が受かるというのは後輩の励みになります」と言われたほど。合格できたのは運が良かったからだと思っています。34歳で子供も2人いましたが、チャンスを貰ったので絶対後には引けない、とにかく勉強してこようと奮起し、家族を日本においてアメリカに行きました。

2度と行きたくないほど勉強しました

ハーバードでのエピソードを教えてください

長沢先生: ハーバードでは寄宿舎に住み、ひたすら勉強しました。もう1度行けと言われても2度と行きたくないほどです。厳しかったのは評価制度です。名商大ビジネススクールでもABCDFという評価でDFは単位が取れません。ハーバードも同じですが、輪をかけて厳しいのが、1年目は全て必須科目であること。つまり、単位を全て取らなければ放校処分です。留年や長期履修制度はありません。このプレッシャーからか、とにかくみんな勉強していましたし、私も必死に勉強するしかありませんでした。

ハーバードは1クラス80人ですが、講義ではみんな挙手するので喋りたくてもなかなか喋れません。私は講義がはじまって1カ月ほど発言できていませんでした。そんな状況にみんなが気がついたらしく、ある日私が手を挙げるとみんながパッと手を下ろし、私だけが手を挙げている状況をつくってくれました。「ユージ、ユージ、ユージ」って声援も。感動して涙が出ました。学校は競争ですが、一方では手を携えることも必要です。競争しつつも一緒に頑張ろうという機運でした。


MBAで人生が変わりました

MBAを取得後、どんなお仕事をされたんですか?

長沢先生: 成績は良くなかったもののなんとかハーバードを卒業して帰国すると、会社は経営企画部、MBAを活かせる部署に配属してくれました。当時伸びていた情報通信分野について戦略を立てなさいと任され、1つの柱としてベンチャーを立ち上げなければならないとなったのですが、「やり手がいないから、長沢、お前やれ」と。いつもそれが続いています。言い出したことを結局自分がやるという感じです。入社17年目40歳くらいでしたが、営業課長を任せられ、初めて自分が社会人としてやりたいとことができるようになりました。

そこで立ち上げたのは、ネットワークゲームの会社とデータベースのソフトウェアの会社という2社です。2社の社長も兼務し、10〜20人ほどの小さい会社でしたが、とても楽しかったです。ところが、うまくいきませんでした。ベンチャー投資はリスクが高いので、10社つくったら1社成功すればいい、9社失敗しても成功した1社でチャラにすればいい。私は担当を任されるとき、リスクが高いので失敗についてあまり口出ししないでほしい、と会社に答申していましたが、やっぱり失敗すると評価にバッテンがついてしまった。極端な話ですが、長沢は信頼できない、仕事させるな、みたいになりつつあったんです。


孫さんは最高の経営者、私のメンターです

プロジェクトが失敗し、その後どうされたんですか?

長沢先生: そんな時に思い出したのが孫正義さんです。2社立ち上げ時にお会いする機会があり、「うちに来ないか」と言ってくださっていました。行き詰まるなかで孫さんにお願いしてみようと会いに行ったら、運良く私を覚えていて「うちにおいで」と言ってくださった。ただ、当時の私はかなり生意気でしたので、孫さんに条件をつけました。社長にしてくださいと。もちろんソフトバンクの社長にしてくれという意味ではありません。そこでソフトバンクに入社しましたが、実際にいたのは1年間だけです。その間立ち上げたのは、ソフトバンクとMicrosoftが日本で合弁でつくった自動車販売仲介のカーポイント(現:カービュー)とともう1社です。孫さんは「人をつける」と言いましたが、実際につけてくれたのは新入社員2人。ちょっと乱暴にも思えますが、なんとかなりました。

孫さんは私が人生で出会った最高の経営者です。成功されているし、もっともっと活躍していただきたい。多くのことを学ばせていただけましたし、話し方やプレゼン方法を真似ているほど影響を受けています。孫さんは私より4歳若いですが、年齢関係なく、最も尊敬しています。

私のビジネス人生最後の仕事

ベンチャー以外もされたんですか?

長沢先生: MBA取得後はベンチャー一辺倒でしたので、少し頭を冷やそうと思い、外資系のプライスウォーターハウスクーパースに入りました。2年ほど大企業のEビジネスのコンサルティングを担当し、コンサルティングは面白いと思いましたが、コンサルティング会社も大起業になるとお金儲け主義になりがちではないか、本当に顧客のためにアドバイスしているのだろうかと、徐々に疑問を抱いていました。この矛盾を部下たちと話すうちに意気投合し、再び会社を起業しました。
この部下とともに立ち上げたのは、フジサンケイグループに出資してもらったライブリッジという、女性向けメーカーのコンサル会社です。3年半ほど勤め、仕事は順調でしたが、気づけば50歳。人間は20〜40代は上昇志向ですが、50歳を過ぎると先が見えてきます。60歳、65歳という一般企業の定年時に自分は何をしたいんだろうと考えたところ、私は60歳ではもう一度ベンチャーの社長をしていたいと思いました。コンサルティングではなく、実ビジネスの社長をしたいと。


教員となったきっかけを教えてください

長沢先生: ライブリッジは育ったので後輩に任せ、知人の紹介で、テック・インデックスという250人ほどの会社の社長に。3年ほどでしたがとても楽しく、自分がやりたいことを存分にできました。56歳で退任したのですが、また悩みました。次はどうしようか、起業して社長になるか、引退して悠々自適に暮らすか。悩みながらしばらくぶらぶらしていると、ハーバードの後輩からビジネススクールで講師をしてくれないかと声がかかりました。そのビジネススクールは創立に関わっていましたし、最初の戦略の講義を担当していました。そこで1年ほど講師をしていたところ、縁あって名商大ビジネススクールの教員となりました。

教員として学生に伝えたいことを教えてください

私は自分の人生の経験を、楽しかったことも辛かったこともみんなに伝えるために、教室に立っています。それってある意味、私のビジネス人生最後の仕事として、すごくかっこいいじゃないですか。私が1つの会社にいたら、それって結構伝承されるんです。自分が若い頃に上司にしてもらったことは、自分が上司になったら若い人にしてあげようと思うし、どの会社でもそうだと思うんですが、私は転職するじゃないですか、だから私をハーバードに送ってくれた方に恩返しできないんです。

ではどうやったら恩返し出来るかと言ったら、自分がその取締役の方がやってくれたことを、同じ会社にはいないんですが、別の方に同じようなことをしてあげたら、多分それが恩返しになると思っていて、それを私がこの教室でMBAの人たちに話すことによって、少しでもそのことが還元できたら、私としては大満足なんです。

自分が人生の中で本当に辛い時、厳しい時に助けてくれた人、そういう人から自分が学ぶことはすごく多かったんです。なので、それをなんとか後輩に伝えたいなと、人生の後輩として学生に伝えたいという思いが強いです。そういう意味では、自分の人生の最後の仕事だと思って仕事をしているので、いつも全力投球ですね。