MBAを取るきっかけとなったのが、広告代理店時代に担当したあるベンチャー企業のキャンペーン。そこで広告分野に留まらない、新規事業の立ち上げに関わりたいという気持ちになり、そのためのキャリア転換のプロセスとして、ビジネススクールを選択をした。
ビジネススクール卒業後は当初の期待通り、事業開発コンサルティングの会社を経て、松竹株式会社での新規事業開発を担当することになり、さらに独立してさまざまな企業の新規事業立ち上げを手伝うことになった。2011年の震災を経て、地域活性化のプロジェクトにも関わるようになり、今はその割合がずいぶん増えている。
そうした変遷を振り返ってみてわかるのは、人生はそのときどきによって、さまざまな景色を見せてくれいて、いっときもとどまっていないということだ。人生のどの瞬間も、プロセスの途中でしかない。今現在だってやはりプロセスの途中で、今やっている地域活性化の仕事が、一体このあと何につながるかなんて予想もつかない。人生というのは、この予測不可能性と切っても切り離せない。
この予測不可能性を耐えるためには、予測不可能な学びしかない。つまり、一見何に役立つかわからないようなことに、取り組むことだ。小手先ではなく、その領域の概念体系全体を受け止めるような学習が欠かせない。そういう幹のある学習をしなければ、想定外の出来事に対応できない。「グーグルで検索順位をあげるためのSEO対策」(これはこれで重要だけれども)は、グーグルがアルゴリズムを変えた瞬間に、無意味になる。本質的な情報アーキテクチャのありかたについて、学んでおいたほうがよっぽど(あえて下世話な言い方をすれば)つぶしがきく。(ここでの「情報アーキテクチャのありかた」とは、たとえば『Intertwingled: 錯綜する世界/情報がすべてを変える』で議論されているような、認知心理学や文化人類学などの幅をもった内容をイメージしている)
MBAの授業が、この意味でつぶしが利くのは、(学生自身がもつ一定の教養は前提としながら)情報や知識を短時間のうちに収集し、分析し、そこから発想していくかという所作を学ぶからであり、実は授業で扱われる具体的な経営学的な知識に依るものではない。MBAが提供するのは、ひとつには、Knowing(知識獲得)ではなく、Doing(行動様式)なのである。
しかし、ここで気をつけておかなければならないのが、前提となっている教養部分である。地層のように積み重なっている個々人の教養がなくては、MBAで学ぶ行動様式は生きてこない。いや、行動力がある分、その軽薄さが前景化してくる。「若手コンサルタントに、御社の問題はおおきく3つありますと言われたけれど、最後まで聞いていても2つしかなかった」というような話である。行動すればするほど、浅はかさが浮き彫りになる。ここで問題となるのは行動様式の話ではなく、教養の話であり、Being(あり方)に通じるものなのだ。
MBAのケースディスカッションのなかで、そうしたひとりひとりのありかたや、すこし大げさに言えば生き様のぶつかり合いが起こる。そこで、「すぐ役に立たないかもしれない、長い時間をかけなければ身につかないもの」を学ぶ動機づけができるか。結局、受講生に響く授業というのは、生きる意味やミッションに触れるものなのだ、というのが、ここ数年授業を受け持ってきたなかでの、現段階での私なりの結論だ。
そこで最初の話につながるのだが、その生きる意味やミッションが何たるかもまた、予測不可能なものだ。ちょっとしたできごとで、取り組むべきことが変わっていく。「自分のミッションは○○だった」なんて、死ぬ間際にしか確定しない。ジョブズが晩年、スタンフォード大学の卒業式での有名なスピーチで「Connecting the dos」という話をしていますが、そのドットがつながりが確定するのが、死ぬ間際ということなのです。
このように、常にプロセスの途上にあるなかで、今やっていることの意味がわからないまま、しかし真剣に取り組んで行くしかないのが人生である。そんな中、予測可能なことにしか取り組まないとしたら、それは貴重な人生を棒に振っていることにさえなるのかもしれない。
MBA取得したあと(そしてビジネススクールで教えるようになってさらに)、「MBAは役に立つか?」と聞かれることが多いが、そういう問いそのものが人生のミッションから自分を遠ざけているということがわかるのも、またMBAなのだと思う。(もちろんすぐに役立つことがたくさんつまっています(笑)。)